75 第39図 012号墓出土遺物 1
第5節 016 号墓
(1)遺構(第 41 図〜第 42 図、図版 19)
016 号墓は調査区丘陵の西斜面に位置し、尾根を挟んで東斜面には 004 号墓が位置する。丘陵斜面地 に墓室を構築した亀甲墓である。当墓は本調査以前に廃棄され墓口が開いており、墓室からは甕形や御 殿形などの蔵骨器が散乱した状態であった。また、墓庭への廃棄も多く見られた。
チジ(屋根)は平面形が後方で湾曲する馬蹄形を呈し、ヤジョーマーイは見られない。ウーシ(臼) に繋がる屋根周縁の石列は板状の切石を並べ、屋根の内側に面を向ける。また後列の切石は外側に面を 向ける。チジ中央はほぼ平坦で盛り上がりは見られない。石敷きは見られず、造成土による盛り土仕上 げである。マユ(眉石)は3個の切石で構成されており、眉頂部は平坦に仕上げ、眉端部に向かって下 方に屈曲し、先端部付近で上方に反る。両端部は肥大しない。眉正面の庇部には小さな段が施されている。 スディイシ(袖石)の上にウーシ(臼)及びクヮウーシ(子臼)が配置される。墓正面は切石による相 方積みだと見られるが、全面漆喰塗布がなされ目地が確認出来ない。墓口は高さ約 0.97m、幅約 0.63m、 奥行き(羨道の長さ)約 0.9mである。サンミデー(供物台)は1段で3個の切石で墓庭と段差を設け、 石敷きは見られない。石灰岩を砕いた砂(10YR6/8 明褐色砂)を敷き詰め、面を揃えている様子が窺えた。 スディイシ(袖石)は墓正面左右に岩盤削り出しの1段で構成されている。正面およびサンミデー側の 面も全面漆喰塗布がなされている。墓庭は岩盤を掘り込んで平坦化を行っている状況が窺えた。左側の ワラビヌティ(童の手)は不明瞭ながらもその痕跡らしき段差が見られるが、右側は欠落する。ワラビ ヌティやナージミー(庭積み)は岩盤を削り出して構築され、斜位に走る斜交層理が顕著に見られる。 左側のナージミーの高さは約1.5mを測る。ハカヌジョー(墓門)は基地建設による影響か検出されなかっ た。現存の墓庭の法量は奥行き約 6.5m、幅約 5.6mを測る。
墓室は棚を含めた幅が約 4.2m、奥行きが約 2.3m、シルヒラシから天井までの高さ約 1.8mを測る。 岩盤に横穴を掘り込んで造られた墓室で、墓室から墓口をみると正面は切石による相方積みで構築され たことが分かる。よって、墓正面を大きく開口し、切石により墓口を構築されたことが窺えた。タナ(棚) は奥壁および左右側壁の出窓状の2類b型で、奥棚の奥行きは約 0.7m、シルヒラシからの高さは約 0.7 mを測る。左棚は奥行き約 0.8m、シルヒラシからの高さは約 0.5mを測る。奥棚および左棚は岩盤を掘 り込んで成形するが、奥行き約 0.8mの右棚は大きな切石を2段積んで構築する。シルヒラシは横約 2.3 m、奥行き約 1.4mを測り、岩盤直上は石灰岩を砕いた礫と石粉を混ぜた 10YR7/6 明黄褐色砂を充鎮し、 その上に1㎝大の小礫が少量混じる 10YR4/6 〜 10YR7/6 を敷き均している。
本墓の明瞭な造墓年代や使用年代は不明である。出土した蔵骨器をみると、図化を見送ったがボー ジャー形の蓋で安里分類のⅤa式(1740 〜 1770)が完形で1点出土し、多数を占める蔵骨器はマンガ ン釉甕形である。また最も新しい銘書は大正 12 年(1923)であることから、出土遺物から推定される 墓の使用時期は 18 世紀中頃から 20 世紀初め頃であると考えられる。
(2)遺物(第 43 図、図版 59)
016 号墓から蔵骨器、本土産磁器、沖縄産施釉陶器、アンダーガーミ、煙管、金属製品が出土した。 そのほとんどは墓庭からの出土であった。
第 43 図 164 はマンガン釉甕形の蔵骨器である。身の資料で口縁部が直口し、口唇部は平坦でやや内
傾する。肩部文様帯は無文で、横帯3〜横帯4の間の胴部を縦帯で5つに区画する。屋門は瓦屋形で2 本の柱で3つに区画する。屋門下部に貼り付けの蓮華文。その他は貼り付けの法師像と蓮華文が見られ、
茎の部分も貼り付けで表現される。胴下部は無文。マンガン釉は肩部、肩部文様帯、屋門の区画、胴下 部に施釉され、法師像が貼り付けられる区画は無釉となる。その特徴から安里編年のⅡ〜Ⅲ期(1770
〜 1850 年代)の資料と考えられる。墓庭から出土。
第 43 図 165 はマンガン釉庇付甕形の身で口縁部は外反し、口唇部は平坦でやや外側に傾く。庇部は 半裁竹管で押引きの立体的な仕上げ。胴部文様帯に蓮華文、茎、法師像の貼り付け。胴下部文様帯には 唐草文と円文の貼り付け。屋門はアーチ形の貼り付けで、銘書面に「内間筑登之」とある。
第 43 図 166 はマンガン釉甕形の身である。口縁部はやや外反し、口唇部は平坦。横帯3・横帯4は それぞれ3条の沈線文で表現され、肩部文様帯や胴部文様帯で見られる唐草文や蓮華文も沈線で表現さ れる。屋門は貼り付けのアーチ形。頂部と柱下に玉飾りが見られる。柱貫は見られない。安里編年のⅤ 期(1900 〜 1920 年代)の資料である。
第 43 図 167 はマンガン釉甕形の蓋である。つまみは宝珠形で鍔や端部を平坦に仕上げる。体部中央 に2条の沈線が廻り、棟状の突帯がつまみ台から中央の沈線まで3本伸び、その下端部に円形の粘土板 を1つ貼り付ける。マンガン釉を全体的に刷毛で施釉され、造りも丁寧である。
第43図168はマンガン釉甕形の蓋である。つまみは宝珠形。鍔は平坦に仕上げ、かえりは0.3㎝と低い。
つまみ台から下方に小孔が 30 箇所余り見られる。銘書は見られない。
第 43 図 169 は沖縄産施釉陶器の煙管の吸い口である。法量は長さ 3.15 ㎝、重量 5.9gである。白色 の素地に透明釉が施される。素地は乳白色を呈する。墓庭から出土。
77
第18表 012号墓蔵骨器(蓋)観察表
※法量の単位は㎝、()内は残存値
№ 蔵骨 器番 号
図版番号 出土 地点
種類
つまみ/屋根形 状 接合部孔 つまみ台・圏線
鍔(㎝)
かえり(㎝)
つまみ台径 口径/棟長 内径/桁行長 器髙/梁行長 体部高/器高
文様 調整痕
釉 薬
銘書 死去年
(西暦)
洗骨年
(西暦)
備考
1 1 第39図149 図版57-149
墓室
・ シル ヒラ シ
ボージャー形 扁平形
無孔 あり・1条
-
-
7.7 31.5 30.7 11.0 8.2
なし
つまみ台は回転削り出し。鍔端部 の中央が浅く窪む。ロクロ成形 後、内外面ともに回転ナデ調整。
なし なし - -
2 3 第39図151 図版57-151
墓室
・ シル ヒラ シ
ボージャー形 扁平形
無孔 なし・なし
-
-
- 29.85
29.2 10.65 8.5
なし
つまみ台なし。端部は平坦。ロク ロ成形後、内外面共に回転ナデ 調整。
なし あり - -
3 2 第39図154 図版57-154
墓室
・ シル ヒラ シ
ボージャー形 なし 無孔 なし・なし
-
-
7.2 22.9 21.5 8.0 8.0
なし
つまみとつまみ台のない笠形。端 部は平坦。ロクロ成形後、外面上 部はヘラ削り。蓋上部の調整が粗 い。
なし あり - -
4 第40図157 図版58-157
墓室 ボージャー形 扁平形
無孔 あり・なし
-
-
8.3 31.05
30.0 9.7 7.5
なし
つまみ台回転削り出し。鍔端部は 中央が浅く窪む。ロクロ成形後、
内外面ともに回転ナデ調整。
なし なし - -
つまみ台直 下に短い縦 位沈線が3 条。窯印か。
5 第40図158 図版58-158
墓室
・ シル ヒラ シ
マンガン釉甕形 宝珠形
有孔 1段・なし
3.3 11
11.8 31.1 21.6 15.6 9.1
なし
体部が張り、鍔端部およびかえり の端部は丸みをおびる。ロクロ成 形後、内外面共に回転ナデ調整。
全体的に丁寧に調整される。
マンガン釉を表面全体 に施釉。鍔の内側は 露胎。
あり 乾隆21
(1756)
-
6 第40図159 図版58-159
墓室 マンガン釉甕形 宝珠形
有孔 1段・なし
2.6 11
13.3 34.3 25.3 16.55 10.25
なし
つまみ台は回転削り出し。鍔は平 坦で端部の中央が浅く窪む。ロク ロ成形後、内外面共に回転ナデ 調整。全体的に丁寧に調整され る。
マンガン釉を表面全体 に刷毛で施釉。鍔の 内側は露胎。
あり 乾隆49
(1784)
乾隆50
(1785)
銘書に戒名 を確認でき る。
7 第40図160 図版58-160
墓室
赤焼御殿形 寄棟造り
- 30.7 50.0 38.6 24.8
寄棟形。大棟の両端に一対 の鯱。降棟の先は獅子頭。
正面背面ともに花文を描く。
両側面は蓮華文を描く。軒 部分に墨で縦線を等間隔で 描く。垂木か。
型成形後、外面は横方向の丁寧 なナデ調整。内面は横方向のナ デ調整が見られるがやや粗い。
白化粧を施す。
なし なし - -
第19表 012号墓蔵骨器(身)観察表
※法量の単位は㎝、()内は残存値
№ 蔵骨 器番 号
図版番号 出土 地点
種類 大きさ
(㎝)
※ 窓枠/屋
門
窓数/形 横帯 文様 調整痕 底面孔
釉 薬
窯 印
銘書 死去年 洗骨年 備考
1 1 第39図150 図版57-150
墓室
・ シル ヒラ シ
ボー ジャー
形 22.7 32.0 19.5 43.5
平葺形 3個 1方2円
①凹2
②凹1
③凹1
④-
なし
口縁部は玉縁状で内傾。ロ クロ成形後、口縁部から胴 下部までナデ調整。内面ナ デ調整。
9個/円 なし ありなし - -窓庇上方 の波状文 は窯印 か。
2 3 第39図152 図版57-152
墓室
・ シル ヒラ シ
ボー ジャー
形 24.5 34.4 19.2 46.0
平葺形 3個 1方2円
①凹2
②凹1
③凹1
④-
なし
口唇部厚みがあり内傾す る。ロクロ成形後、口縁部 から肩部は弱い回転ナデ 調整。肩部から胴下部は静 止ナデ。胴最下部は回転 ヘラ削り。
5個/円 なし あり なし - -窓庇右上 方に窯印 あり。
3 第39図153 図版57-153
ボー ジャー
形 27.5 37.5 18.5 48.8
平葺形 3個 1方2円
①凹2
②凹1
③凹1
④-
なし
口縁部は玉縁状で内傾。ロ クロ成形後、口縁部から胴 下部までナデ調整。胴最下 部はヘラ削り。焼成不良に より器形が歪む。口唇部に 削り痕あり。
5個/円 なし あり なし - -窓庇左上 に窯印あ り。
4 2 第39図155 図版57-155
墓室
・ シル ヒラ シ
無釉甕 形
23.3 34.0 19.5 49.0
唐破風 形
3個 1円2円
①凹2
②凸1
③凹1
④凹1
窓は唐破風形で屋根の頂部に玉 飾りの貼り付けの痕がみられる。
直口口縁で、口唇部は平 坦。ロクロ成形後、口縁部 から底部を回転ナデ調整。
7個/円 なし あり あり - -窓枠左側 および背 面肩部に 窯印あ り。
5 第40図156 図版58-156
墓室
・ 墓庭
マンガン 釉甕形
32.0 42.0 25.0 64.0
アーチ 形
3個 1方2方
①凹2
②凸2
③凸3
④凸3
肩部文様帯は櫛描きの波状文が2 条。胴部は貼り付けの蓮華文。茎 部分は線彫り。蓮華の上に貼り付 けの法師像。胴下部文様帯は櫛 描きの波状文が2条。
口縁部は外反。口唇部は 平坦に成形する。ロクロ成 形後、口縁部から胴下部を ナデ調整。胴最下部をヘラ 削り。内面、回転調整。
6個/円 マンガン釉 を表面全に 施釉する が、胴下部 および銘書 面を露胎。
なし あり
※大きさ(㎝)は、ボージャー形・甕形は上から口径/胴径/底径/器高。家形・御殿形は上部(長軸×短軸)/底部(長軸×短軸)/器高。
道光21?
(1841)
第20表 012号墓 陶磁器他観察表
1 第40図 161 図版58-161
墓庭 瓶 沖縄産施釉陶器
口径:2.4 器高:14.1 底径:5.3
畳付と内面以外は光沢のある瑠璃釉を施す。焼成時に隣の製品 と溶着した痕跡あり。素地は浅黄橙色。
2 第40図 162 図版58-162
墓庭 瓶 沖縄産施釉陶器
口径:1.9 器高:11.2 底径:6.7
白化粧に透明釉。外面は畳付以外全面に、内面は口縁内に施釉 される。畳付にはアルミナ、高台の内外には白色細砂が付着す る。外面にコバルトと飴釉の線条文を施す。素地は浅黄橙色。
3 第40図 163 図版58-163
墓庭 円盤状製品 沖縄産無釉陶器 縦:3.4 横:2.9 厚さ:0.9
重量12g。沖縄産無釉陶器を円形に打割した製品。素地はにぶい 赤褐色。
観察事項 備考
№
挿図番号 図版番号
出土地 器種 分類 法量(cm)
第4節 012号墓
(1)遺構(第36図〜第37図、図版17)
012号墓は調査区丘陵の西斜面に位置し、牧港石灰岩の基盤とする丘陵斜面に横穴を掘り込んで墓室を 構築した亀甲墓である。当墓は本調査以前に廃棄された墓で、調査前は墓口が見えないほど埋没していた。
墓口は閉塞されておらず開口していたことから土砂が墓室に流れ込み、出土した蔵骨器のほとんどは割 れた状態で散乱していた。しかし、数基ほどは完形を留め、原位置が分かるものもあった(第38図)。
チジ(屋根)は亀甲墓で見られるような平面形が馬蹄形を呈しておらず、左右非対称の矩形である。墓庭 から見ると奥の方へ広がる撥状となる。岩盤を約0.15m浅く掘り下げ、チジ中央は緩やかな弧状で成形さ れる。向かって左側に切石が数個残存しており、本来は切石で屋根の周縁を巡らされていたと考えられる。
ヤジョーマーイは見られず、眉両端は岩盤と接していることから、ミジハイ(水はけ口)も見られない。チ ジの表面に石敷きは見なれなかったため、岩盤を削り出した後は盛り土等で表面を仕上げたと考えられ る。マユ(眉)は正面観が緩やかな弧状を呈しており、6個の切石で構成されている。眉端部は微弱に上へ 反るが、肥大しない。009号墓で見られた眉正面の庇部の段差は本墓では見られない。ウーシ(臼)やクヮ ウーシ(子臼)も見られず、眉端部は岩盤に接する。墓正面も岩盤の削り出しで構築され、墓口のジョウカ ブイ(門被い)やジョウハシラ(門柱)は見られない。墓口は高さ約1.2m、幅は上部で約0.6m、下部で0.7m。
奥行(羨道の長さ)約1mである。サンミデー(供物台)は幅約2.4m、奥行約0.95mで岩盤による削り出しで 構築されるが、縁の部分に一部切石が使用されている。カビアンジは見られない。スディイシ(袖石)は墓 正面左右に、岩盤削り出しの1段で構成される。向かって左側の袖石の角部分は切石を使用して面を揃え ている。墓庭も岩盤の削り出しで構築され、岩盤の窪みに小礫が多く含まれる締まりの強い褐色砂質土
(7.5YR4/4)が重鎮され、その上に暗褐色砂質土の旧表土が見られた。ナージミー(庭積み)も岩盤を削り出 して成形している。左側のナージミーの高さは約1.7mを測る。明確なワラビヌティ(童の手)は見られな かったが、両ナージミーとも上部に段差がある。ジョー(門)は見られないため墓庭の法量は掴めないが、
ナージミーで囲まれる範囲は奥行約4.3m、幅約6.3mを測る。墓庭北側で埋納獣骨が検出された。検出され た埋納骨の詳細については、第6章を参照いただきたい。
墓室は幅約3.1m、奥行き約2.6m、シルヒラシから天井まで の高さ約1.5mを測る。牧港石灰岩の岩盤に横穴を掘り込んで 構築される。タナ(棚)は奥側に一段、左右に一段のコの字状で 奥棚と左右棚に段差が見られることから3類b型に相当する。
墓室の平面観は四隅の陵が緩い楕円状で、左右棚の位置は非対 称である。棚は全て岩盤を削り出して造られている。壁面や天 井は岩盤の細かな凹凸が見られ、全体的に雑な仕上げの印象で ある。シルヒラシは横約2.0m、奥行き約1.9mを測り、石灰岩を 砕いた小礫と石粉が混じった明黄褐色砂を敷き均している。
本墓の造営年代は不明だが、墓の使用時期は検出されたボー ジャー形で最も古いものは1740〜1770年の資料であること を考慮すると、18世紀の中頃から始まり、マンガン釉甕形で安 里編年Ⅲ〜Ⅳ期(1810〜1870年)の資料より19世紀終わり頃
まで使用された墓であると考えられる。
(2)遺物(第39図〜第40図、図版57〜図版58)
012号墓からは蔵骨器、沖縄産陶器、本土産磁器、金属製品が 得られた。蔵骨器はボージャー形、甕形、庇付甕形、御殿形が出 土している。墓室からの出土であるが、そのほとんどが破損し、
原位置を保つものはシルヒラシで壁際に安置された数基で あった(第38図)。以下、残存状況の良好なものを図化した。銘書 から内間姓、仲嘉間姓、比嘉姓を確認できた。
蔵骨器1(第39図149、150)はシルヒラシの北東の角に安置 されていたボージャー形である。蓋はつまみが扁平形で蓋裏の 中心部は無孔である。径7.7㎝のつまみ台が見られ、体部は無文 である。鍔端部の中央が浅く窪む。安里分類のⅤa式(1740〜
1770)の資料である。身は頸部沈線が2本、胴部は無文で、マド 枠は平葺形が貼り付けられる。マド枠の上部に見られる短い波
状文はカマ印と思われる。安里分類のⅢa式(1700〜1800)に相当する資料である。両者の絞り込みから 1740〜1770年の資料と考えられる。
蔵骨器3(第39図151、152)は左棚の前方に安置された蔵骨器でボージャー形である。蓋はつまみは扁 平形で蓋裏の中心部は無孔である。つまみ台は見られず、体部は無文である。安里分類のⅤb式(1740〜
1770)の資料である。身は頸部沈線が2本、胴部は無文で、平葺形のマド枠が貼り付けられる。最大胴径は 胴部横帯の下部沈線にあり32.0㎝を測る。マド枠右上方にカマ印が見られる。安里分類のⅢa式(1700〜
1800)の資料である。両者の絞り込みから1740〜1770年の資料と考えられる。蓋裏に銘書があり「仲嘉間 筑登之/女子/蒲■[戸カ]と読める。銘書より被葬者は「仲嘉間筑登之女子蒲戸」ということが分かる。
第39図153はボージャー形で接合により復元できた資料。頸部沈線は2本を数え、胴部は無文である。平 葺形のマド枠が貼り付けられる。マド枠の左上方にカマ印が見られる。焼成不良により器形が歪む。安里 分類のⅢa式(1700〜1800)の資料と見られる。
蔵骨器2(第39図154、155)は器形がボージャー形とマンガン釉甕形の両方の類似点が見られる資料で、
安里分類の無釉甕形と考えられる資料である。器面にマンガン釉は施釉されず焼しめられている。蓋は ボージャー形でつまみやつまみ台が見られない笠形である。蓋上部の調整が粗い。安里分類のⅤa式(1740
〜1770)に相当する。身は口縁部が直口し、口唇部は平坦である。横帯1は2条の沈線が見られ、横帯2は 突帯が1条見られる。横帯が口縁部、頸部にある点はマンガン甕形と共通する。しかし横帯3、4はなく、
ボージャー形で見られる胴部横帯の沈線が上下に1条ずつ見られる。貼り付けられたマド枠も唐破風形 で1円2円と見られ、唐破風の頂部に玉飾りの跡が見られた。安里編年ではマンガン釉甕形のⅠ期(1760
〜1770年代)に該当する資料で、ボージャー形ではⅦ式(1750〜1820年)にあたる資料である。銘書が蓋 及び身で見られた。蓋裏では「内間筑登之女子/ま加戸/同人女子/まさ」と読めた。身の胴部で見られた 銘書は大部分が薄れていたが「嘉■[慶カ]■■[拾カ]…七月七日洗骨/…■戸/…」と読め、嘉慶年間
(1796〜1820年。二桁台の年代だと1805〜1820年となる)の洗骨ということが分かる。銘書より被葬者は
「内間筑登之女子ま加戸」とその女子の「まさ」の二人だということが分かる。
第40図156はマンガン釉甕形の身である。墓室シルヒラシから出土。横帯1は沈線が2条、横帯2は突帯
が2条施される。肩部文様帯は櫛描波状文が2条施され、胴部文様帯は貼り付けの蓮華文、茎の部分は沈 線で表現される。蓮華の上の法師像は貼り付け。胴下部文様帯にも櫛描波状文が2条施される。屋門は貼 り付けのアーチ形で柱貫が見られ、頂部には花形の円文が見られる。安里編年のⅢ期〜Ⅳ期(1810〜1890 年代)の資料。屋門に銘書が見られ「道光弐■壱■■■…七月廿日/■間筑登之」と読める。道光21年
(1841)に■間筑登之(内間?)が洗骨または死去したことが分かる。
第40図157はボージャー形の蓋である。墓室から出土。つまみは扁平形で蓋裏の中心は無孔。径8.3㎝の つまみ台が見られる。胴部は無文。銘書は見られないが、内面中央に十字を丸で囲んだ墨書が見られた。器 形より安里分類のⅤa式(1740〜1770)に相当する資料である。
第40図158はマンガン釉甕形の蓋である。つまみは宝珠形で径11.8㎝のつまみ台が1段。体部が丸みを 持って張り、内外面ともに回転ナデ調整が施され全体的に丁寧な造りである。蓋内面に銘書が見られ「乾 隆二十一年/丙甲五月廿五日去/比嘉筑登之男子/比嘉筑登之親雲上」とある。被葬者は乾隆21年
(1756)に死去した比嘉筑登之の男子で「比嘉筑登之親雲上」ということが分かる。
第40図159はマンガン釉甕形の蓋である。つまみは宝珠形で径13.3㎝のつまみ台が1段見られる。鍔は 平坦で端部の中央が浅く窪む。内外面ともに回転ナデ調整が施され、全体的に丁寧な造りである。蓋内面 に銘書が見られ「本空妙性禅定尼/乾隆四拾九年甲辰/九月初六日死去/同五拾年乙己七月九日洗骨/
比嘉筑登之/妻/本名なへ」とある。戒名を持つことから寺との関係性があり、乾隆49年(1784)に死去し、
翌年の乾隆50年(1785)に洗骨されたことが分かる。
第40図160は赤焼御殿形の蓋である。検出は奥棚で向かって左端にあったが、蓋のみで置かれた状態で の検出であったため、原位置ではないと判断した。屋根は寄棟造りで大棟の両端に一対の鯱を施す。降棟 の先は獅子頭を正面・背面の両面に貼り付ける。正面・背面とも白化粧後に体部には花文を描き、両側面は 蓮華文を描く。軒に墨で縦線を等間隔で描いており、垂木の表現と考えられる。上江洲編年の1680年〜
1780年の資料である。ただし、同じ赤焼系統でも寄棟になったものは1764〜1770年代に集中する註1とあ ることから、本蔵骨器もその間の資料と想定される。銘書は見られない。
副葬品は本土産の碗類や沖縄産陶器の瓶や碗、円盤状製品、鉄釘が出土した。その内、残存状況が良好の 以下の3点を図化した。
第40図161は沖縄産施釉陶器の瓶で、法量は口径2.4㎝、器高14.1㎝、底径5.3㎝を測る。畳付と内面以外 は光沢のある瑠璃釉を施す。焼成時に隣接した製品と溶着による痕跡が見られる。素地は浅黄褐色を呈す る。墓庭から出土した。
第40図162は沖縄産施釉陶器の瓶で、法量は口径1.9㎝、器高11.2㎝、底径6.7㎝を測る。白化粧に透明釉 を施す。外面は畳付以外の全面に、内面は口縁内に施釉される。畳付にはアルミナ、高台の内外には白色細 砂が付着する。外面にコバルトと飴釉の線条文を施す。素地は浅黄橙色を呈する。墓庭から出土した。
第40図163は沖縄産無釉陶器を円形に打割成形した円盤状製品である。法量は縦3.4㎝、横2.9㎝、厚さ 0.9㎝を測る。素地はにぶい赤褐色を呈する。墓庭からの出土。
<参考文献>
註1:沖縄県立博物館・美術館・2008年『ずしがめの世界』
第5節 016 号墓
(1)遺構(第 41 図〜第 42 図、図版 19)
016 号墓は調査区丘陵の西斜面に位置し、尾根を挟んで東斜面には 004 号墓が位置する。丘陵斜面地 に墓室を構築した亀甲墓である。当墓は本調査以前に廃棄され墓口が開いており、墓室からは甕形や御 殿形などの蔵骨器が散乱した状態であった。また、墓庭への廃棄も多く見られた。
チジ(屋根)は平面形が後方で湾曲する馬蹄形を呈し、ヤジョーマーイは見られない。ウーシ(臼)
に繋がる屋根周縁の石列は板状の切石を並べ、屋根の内側に面を向ける。また後列の切石は外側に面を 向ける。チジ中央はほぼ平坦で盛り上がりは見られない。石敷きは見られず、造成土による盛り土仕上 げである。マユ(眉石)は3個の切石で構成されており、眉頂部は平坦に仕上げ、眉端部に向かって下 方に屈曲し、先端部付近で上方に反る。両端部は肥大しない。眉正面の庇部には小さな段が施されている。
スディイシ(袖石)の上にウーシ(臼)及びクヮウーシ(子臼)が配置される。墓正面は切石による相 方積みだと見られるが、全面漆喰塗布がなされ目地が確認出来ない。墓口は高さ約 0.97m、幅約 0.63m、
奥行き(羨道の長さ)約 0.9mである。サンミデー(供物台)は1段で3個の切石で墓庭と段差を設け、
石敷きは見られない。石灰岩を砕いた砂(10YR6/8 明褐色砂)を敷き詰め、面を揃えている様子が窺えた。
スディイシ(袖石)は墓正面左右に岩盤削り出しの1段で構成されている。正面およびサンミデー側の 面も全面漆喰塗布がなされている。墓庭は岩盤を掘り込んで平坦化を行っている状況が窺えた。左側の ワラビヌティ(童の手)は不明瞭ながらもその痕跡らしき段差が見られるが、右側は欠落する。ワラビ ヌティやナージミー(庭積み)は岩盤を削り出して構築され、斜位に走る斜交層理が顕著に見られる。
左側のナージミーの高さは約1.5mを測る。ハカヌジョー(墓門)は基地建設による影響か検出されなかっ た。現存の墓庭の法量は奥行き約 6.5m、幅約 5.6mを測る。
墓室は棚を含めた幅が約 4.2m、奥行きが約 2.3m、シルヒラシから天井までの高さ約 1.8mを測る。
岩盤に横穴を掘り込んで造られた墓室で、墓室から墓口をみると正面は切石による相方積みで構築され たことが分かる。よって、墓正面を大きく開口し、切石により墓口を構築されたことが窺えた。タナ(棚)
は奥壁および左右側壁の出窓状の2類b型で、奥棚の奥行きは約 0.7m、シルヒラシからの高さは約 0.7 mを測る。左棚は奥行き約 0.8m、シルヒラシからの高さは約 0.5mを測る。奥棚および左棚は岩盤を掘 り込んで成形するが、奥行き約 0.8mの右棚は大きな切石を2段積んで構築する。シルヒラシは横約 2.3 m、奥行き約 1.4mを測り、岩盤直上は石灰岩を砕いた礫と石粉を混ぜた 10YR7/6 明黄褐色砂を充鎮し、
その上に1㎝大の小礫が少量混じる 10YR4/6 〜 10YR7/6 を敷き均している。
本墓の明瞭な造墓年代や使用年代は不明である。出土した蔵骨器をみると、図化を見送ったがボー ジャー形の蓋で安里分類のⅤa式(1740 〜 1770)が完形で1点出土し、多数を占める蔵骨器はマンガ ン釉甕形である。また最も新しい銘書は大正 12 年(1923)であることから、出土遺物から推定される 墓の使用時期は 18 世紀中頃から 20 世紀初め頃であると考えられる。
(2)遺物(第 43 図、図版 59)
016 号墓から蔵骨器、本土産磁器、沖縄産施釉陶器、アンダーガーミ、煙管、金属製品が出土した。
そのほとんどは墓庭からの出土であった。
第 43 図 164 はマンガン釉甕形の蔵骨器である。身の資料で口縁部が直口し、口唇部は平坦でやや内
傾する。肩部文様帯は無文で、横帯3〜横帯4の間の胴部を縦帯で5つに区画する。屋門は瓦屋形で2 本の柱で3つに区画する。屋門下部に貼り付けの蓮華文。その他は貼り付けの法師像と蓮華文が見られ、
茎の部分も貼り付けで表現される。胴下部は無文。マンガン釉は肩部、肩部文様帯、屋門の区画、胴下 部に施釉され、法師像が貼り付けられる区画は無釉となる。その特徴から安里編年のⅡ〜Ⅲ期(1770
〜 1850 年代)の資料と考えられる。墓庭から出土。
第 43 図 165 はマンガン釉庇付甕形の身で口縁部は外反し、口唇部は平坦でやや外側に傾く。庇部は 半裁竹管で押引きの立体的な仕上げ。胴部文様帯に蓮華文、茎、法師像の貼り付け。胴下部文様帯には 唐草文と円文の貼り付け。屋門はアーチ形の貼り付けで、銘書面に「内間筑登之」とある。
第 43 図 166 はマンガン釉甕形の身である。口縁部はやや外反し、口唇部は平坦。横帯3・横帯4は それぞれ3条の沈線文で表現され、肩部文様帯や胴部文様帯で見られる唐草文や蓮華文も沈線で表現さ れる。屋門は貼り付けのアーチ形。頂部と柱下に玉飾りが見られる。柱貫は見られない。安里編年のⅤ 期(1900 〜 1920 年代)の資料である。
第 43 図 167 はマンガン釉甕形の蓋である。つまみは宝珠形で鍔や端部を平坦に仕上げる。体部中央 に2条の沈線が廻り、棟状の突帯がつまみ台から中央の沈線まで3本伸び、その下端部に円形の粘土板 を1つ貼り付ける。マンガン釉を全体的に刷毛で施釉され、造りも丁寧である。
第43図168はマンガン釉甕形の蓋である。つまみは宝珠形。鍔は平坦に仕上げ、かえりは0.3㎝と低い。
つまみ台から下方に小孔が 30 箇所余り見られる。銘書は見られない。
第 43 図 169 は沖縄産施釉陶器の煙管の吸い口である。法量は長さ 3.15 ㎝、重量 5.9gである。白色 の素地に透明釉が施される。素地は乳白色を呈する。墓庭から出土。
跡
道光21 跡